ボヘミアン・ラプソディ  第5話  臆病王マーティン前編

ボヘミアン・ラプソディ

第5話

臆病王マーティン前編

 西暦929年10月、ボヘミア王に即位した15歳のマーティンは気性が激しく勇敢で武勇に優れた父ヴァーツラフとはほぼ真逆の人物であった。寛容で謙虚、臆病な性格で成人後にすぐに「臆病者」の異名を得て臆病王の名で呼ばれるような男だった。だが、皮肉なことに勇敢な父王が短い治世で大きな戦争が少なかった王なのに対し、臆病王は50年以上に渡る長い治世といくつもの戦争に巻き込まれ続けた王であった。父のように自身が戦陣に立つことは生涯無く、戦いは全て配下の将軍に任せていた。そして臆病王のボヘミア王国にとって戦争とは華やかな騎士物語のような戦いでなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待ち続けるような耐え忍ぶ戦いであった。しかし、厳しい冬に耐えた種子が春にたくましく芽吹くかのごとく、戦乱に耐えた王国は長い治世の間に知識を蓄え優秀な神学者になった臆病王によってその後の繁栄の基礎を築くこととなる。

 

 ここからはボヘミア王マーティン、臆病王マーティンの長い治世の前編を語る。

 西暦930年5月、ボヘミア王マーティンは16歳になり神学者としての教育を終えて成人となる。王太后シビレによる執政体制からはお互いの信頼関係によって速やかに王の親政へと移行するものの、成人した王はお世辞にも優秀な神学者とは言えなかった。

 

 最初に彼が王として取り掛かったことは伴侶を娶ることであった。幸いにもすぐに女王候補の女性は見つかる。相手は東ローマ帝国のビザンティオンに滞在していたシュニク家の娘、16歳のゴランドウフトである。アルメニア語を母語とした文化で育ち、使徒教会の敬虔な信徒でもある。性格はやや奇抜で強欲であったが、なによりも彼女はその美貌で知られていた。異なる文化、異なる宗教ではあったが、王が積極的にアルメニア語を学ぶなど夫婦仲は円満であり、西暦975年6月5日に彼女が61歳にて老衰で王と死別するまでの間に2人は7人の子に恵まれることとなる。王は妻の死後、この世を去るまで新しい妻を迎えなかったという。

 

 頼りない若き王の治世はすぐに長い戦乱の世を迎える。西暦930年9月、ゴレリク族長がボヘミア王への宣戦を布告し開始された「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」を皮切りに次々と戦争が重ねられていく。以下はその年表である。

 

930年9月、「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」が開始

 

同年11月、「フライシュタットによるボヘミア公爵領請求戦争」が開始
 ゴレリク族長軍及びフライシュタット女伯軍に数で負け、同盟関係にあるノルトガウ公に援軍を求めるもノルトガウ公国軍は別の戦争で身動きが取れない。

 

同年12月、「ボレスラフでの戦闘」でボヘミア王国軍がゴレリク族長連合軍に敗北
 ボヘミア王国軍が敗走したことにより、ここから戦争は膠着状態に入る。

 

931年3月、ポラーブ王が息子とボヘミア王の妹との婚約を提案
 すぐにボヘミア王はこの婚約を受諾し、同盟関係を築いた上でポラーブ王に援軍を要請する。ここで敵よりも数の上で有利になり反撃を開始する。

 

932年3月、18ヶ月に及ぶ「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」に勝利
 ゴレリク族長に勝利するも、頼みの綱であるポラーブ王国軍が別の戦争に駆り出され、フライシュタット女伯と再び数に劣る戦いを強いられることになる。

 

933年1月、ボヘミア王オーストリア女公の息子と妹の婚約を提案
 ボヘミア王は妹とオーストリア女公「糞漏らしの」リヒェンツァの息子を婚約させるも、これは完全な誤算であった。フライシュタット女伯はオーストリア女公の封臣のため参戦の要請ができないのである。このままフライシュタット女伯との不利な戦いが続く。

 

934年4月、オポラニア大族長が王太后シビレとの結婚を提案
 すぐにボヘミア王はこの結婚を受諾し、同盟関係を築いた上でオポラニア大族長に援軍を要請するも、オポラニア大族長軍は別の戦争を駆り出されており、援軍は来ず。

 

同年11月、おじのチャースラフ美貌伯ブディスラブが34歳にて戦傷により死去
 戦闘での敗北が続き、プシェミスル家の人間にも戦死者や戦傷者が増え始める。

 

935年11月、「ドゥヴール=フヴォイノでの戦闘」でボヘミア王国軍がフライシュタット女伯軍に勝利
 ポラーブ王国軍とオポラニア大族長軍の援軍が到着したことにより戦況が打開され、ここからボヘミア王国軍とその同盟軍による連戦連勝が続く。

 

937年1月、フライシュタットを陥落させ、フライシュタット女伯ジュディスを捕縛
同年同月、6年に及ぶ「フライシュタットによるボヘミア公爵領請求戦争」に勝利


 ここで930年9月から開始された2つの戦争がボヘミア王国の勝利にて終結する。王国に1年間の短い平和が訪れる。

 

938年1月、「ボヘミアによる女族長ヴィエラのオパヴァ伯爵領請求戦争」を開始
同年11月、「ボヘミアによる女族長ヴィエラのオパヴァ伯爵領請求戦争」に勝利
 938年1月の王宮での謁見から開始された10ヶ月の戦争にボヘミア王国軍は勝利する。ここから再び1年と少しの平和の後、同盟関係による長い戦乱の時代が幕を開ける。

 

940年7月、ポラーブ王の要請により「ドブジニ文化スラブ真言教信徒の反乱」に参戦
同年8月、オポラニア大族長の要請により「シュフィエボジンによるブジェク族長領の征服戦争」に参戦
941年5月、オーストリア公の要請により「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に参戦
942年3月、ポラーブ王の要請により「ポズナニのポラーブ従属化戦争」に参戦
同年6月、「公爵ランペルトの暴政に対する反乱戦争」が白紙和平
同年10月、ポラーブ王の要請により「ポメレリアによるシュチトノ族長領の征服戦争」に参戦
同年11月、オーストリア公の要請により「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に参戦
同年12月、「ドブジニ文化スラブ真言教信徒の反乱」に勝利
943年1月、ポラーブ王の要請により「ユランによるレダリア族長領の征服戦争」に参戦
同年11月、「シュフィエボジンによるブジェク族長領の征服戦争」に敗北
945年3月、「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に敗北
947年1月、「ユランによるレダリア族長領の征服戦争」に敗北
同年4月、「ポメレリアによるシュチトノ族長領の征服戦争」に敗北
同年12月、「ポズナニのポラーブ従属化戦争」に勝利

 

 西暦947年、約7年に及ぶこの地域での戦乱の時代が終結する。ボヘミア王国は全て防衛側である同盟国の要請による参戦ではあったが、あまりに消極的な参加は同盟の信用を傷つけることになるため、出来得る限りは戦う方針で戦争に臨んだ。だが、先の戦争から続く負担もあり、国庫金が不足する場面も多々あったので、思うように戦うことのできない状態でもあった。即位して約19年、臆病王マーティンがここまでの戦争で学んだことは、やはり金が無くては国は維持できないということであった。そしてそれが後のボヘミア王国のチャースラフ伯領にある銀山、クトナー・ホラ鉱山の本格的な採掘へと導かれることになる。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。