ボヘミアン・ラプソディ 最終話 王ボジェクⅢ世にして皇帝ボジェクⅠ世

ボヘミアン・ラプソディ
最終話
王ボジェクⅢ世にして皇帝ボジェクⅠ世

 西暦1050年5月、28歳のボジェクが父王から全てを継承してボヘミア国王ボジェク3世を名乗り、ソルビア王国及びポーランド王国を兼ねた中央欧州を支配する強大な王となった。混乱した父王の即位後とは異なり、豊かな財源と強大な軍隊、平和な王国という安定した治世が始まる。だが、王自身はそうではなかった。控えめで穏やか、欲張りも威張りもしない性格のボジェクⅢ世にとって、三つの王冠はあまりにも重すぎた。王として威厳のある存在で自分をいさせるために己に文字通り体に鞭を打ち、苦行を課すことで精神を安定させるという有様であった。そんな彼を救ったのは、ある時に城の宝物庫で発見した祖父ボジェクⅠ世の日記に書かれた巡礼という己の解放方法であった。

 西暦1051年10月、ボジェクⅢ世のバチカンへの巡礼が開始された。約一年間に及ぶ彼の旅路は、プラハの王宮に閉じ込められて病んだ心を解放するのに十分な時間であった。そして王は自身を傷つけることは止めた。自らを王として認め、自分なりの王の道を歩むことに決めたのだった。この巡礼によって彼は神に愛されることができたのだった。

 西暦1054年8月、かつてバチカンで謁見したこともある教皇よりニトラ公爵領への請求権要求を認める書状がプラハ王宮へと届く。かくしてボヘミア王国がさらなる飛躍を遂げる最後の一歩となる「ボヘミアによるニトラ公爵領請求戦争」が開始されたのである。

 西暦1055年12月、ボジェク3世は「ボヘミアによるニトラ公爵領請求戦争」に勝利し、自他ともに認める中央欧州の覇者となる。こうして中央欧州帝国を作り上げる準備が整う。

 西暦1058年1月、プラハの丘の上でローマ教皇が聖油と大粒の宝石がいくつも輝く黄金の冠をボジェクⅢ世の頭へ授ける。こうして西スラヴィア帝国が建国され、偉大なる皇帝ボジェクⅠ世が誕生したのである。西暦870年1月にプシェミスル家の獅子公ネクランがキリスト教の洗礼を受けてから188年の歳月が流れていた。ボヘミアプラハの丘から始まったプシェミスル家は西スラヴィアを統一し、中央欧州に強大な帝国を打ち立てた伝説の一族へとなったのだった。これから先、この帝国がどのような栄枯盛衰の物語を奏でるのかはまだわからない。ただこの物語はここで終焉を迎える。188年の物語、長くも短いこの物語にここまでお付き合いいただいたあなたに感謝を。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。

ボヘミアン・ラプソディ 第9話 名士王ボジェクⅡ世

ボヘミアン・ラプソディ
第9話
名士王ボジェクⅡ世

 

 西暦1013年、11世紀に入って初めてボヘミア王に即位したボジェクⅡ世の治世は大きく三つに分けられる。偉大なる父王たる敬虔王の戦争の後始末と兄弟殺しを犯してまで王国の安定を求めた前期、封臣たちの反乱による二度の「分権戦争」とその敗北と勝利による混乱の中期、家族を愛したことで名士王と呼ばれ、そしてその家族を失う晩年の後期である。

 

 ではまず前期から語っていこう。

 

 父王から19歳の若さでボヘミア王を継承したボジェクⅡ世であったが、彼は男兄弟が多かった。彼自身も次男であり、継承権は生母たる王妃の強力な推薦と長男の修道院への出家によるものであった。三男でソルビア王を継承し、ボヘミア王国から独立した同じ名前のボジェクⅡ世、四男はシレジア公爵、五男は二つの伯爵領を継承した。結果、王位を継いだとはいえ、ボヘミア王に残されたのは三つの伯爵領であり、このままでは常備軍の維持費にすら困窮する有様であった。さらに父王が始めた戦争は継続中であり、戦費も重くのしかかっていく。しかも弟たちはまだ未成年であり、戦死などもありえず、このままの直轄領土では大きく広がったボヘミア王国の封臣たちを束ねることは難しい。内向的で忍耐強く、謙虚な彼であったが、王として孤独に悩んだ結果は血塗られた道であった。

 

 西暦1014年11月、14歳のソルビア王ボジェクⅡ世が不審死によって最後を遂げた。死んだ王が最後に食べた菓子に毒が盛られていたのだ。そしてその菓子はソルビア王の継承権を持つ兄王から贈られたものであった。ボヘミア王は公式には否定し続けたものの、冷酷な殺人者、非道な肉親殺しとして世間から白い目で見られるようになる。

 

 昨年の10月にようやく父王が始めた戦争から端を発する一連の戦乱に区切りがついた西暦1018年1月、今度は6歳で2つの伯爵領を持つボヘミア王子が高所から落下して死亡するという痛ましい不審死事件がおきる。疑惑は肉親殺しの兄王にして伯爵領の継承権を持つボジェクⅡ世へと向けられた。事実、幼子の殺害に関わった人物が彼の名前を暴露している。もはや兄弟を殺すことに躊躇しなくなったと思われた男は、一族から忌み嫌われるようになる。そして声高に王の罪を糾弾したのが、ボジェクⅡ世の実兄で神の道へと進んだカレル・プシェミスルであった。カレルは自分から全てを奪っただけでなく、敬虔王と呼ばれた父の名を汚す弟を当然許すはずもなかった。しかし、兄カレルはただの修道僧であり、弟ボジェクⅡ世はボヘミア王であり、ソルビア王であった。

 

 西暦1019年5月、ボヘミア王ボジェクⅡ世の兄カレルが何者かに暗殺される。もちろん二人の弟を殺したことと死んだカレルと激しく対立していたことで知られているボジェクⅡ世の関与が疑われたが、この件に関してはその後もわからず仕舞いであった。

 

 こうして兄弟三人が死んだことで安定した税収とそれによる統治能力を手に入れたかに見えたボヘミア王であったが、ここまでの悪評が彼の足元をすくうことになる。それが続く中期に発生することになる。

 

 西暦1024年6月、ボヘミア王は「ボヘミアによるヴィスワ公爵領の慣習的領有権戦争」を宣戦布告する。この年の4月にはポーランド王国を簒奪し、三王国の王として君臨していたボジェク二世は、父が成し得なかった強大なる帝国の成立を実現すべく、動き出したのだった。しかし、開戦して半年後の12月、封臣たちが行動に出る。兄カレルが死んだ年に可決、制定した王の権力を強化した新たなる王権法にかねてから反発していた封臣たちが兵を挙げたのである。「分権戦争」の始まりである。

 

 ここで注意したいのが、この反乱は王の権力を弱めることを目的としたものであり、王国の解体や王国からの独立、王の退位を望んだものでないということだ。封臣たちは王への権力集中に不満を抱いたのであり、ボヘミア及びソルビア、ポーランド連合王国とその王そのものに対する不満ではなかった。だが、反乱は反乱であり、この内戦によって王国は一時的ながらも混乱状態へと突入する。

 

 対外戦争と内戦を抱えてしまったボヘミア王は焦ってはいたが、これまでの王とその歴史同様にプラハの丘の城は陥落しないであろうし、きっと王国軍が敵を打ち破るであろうと思い込んでいた。だがそれは開戦して9ヶ月後、プラハ城を包囲され、そして救援に来た王国軍が数に勝る反乱軍に敗北するまでであった。王も敵がまさかここまでの数にまで膨れ上がるとは思ってはいなかったのである。

 

 そして西暦1026年6月、包囲されていたプラハ城は外敵ではなく反乱によって初めて陥落し、プシェミスル王家の人々は囚われの身となる。もちろん王も例外ではなかった。そしてその後、すぐに反乱軍の要求が囚われの王によって聞き入れられ、内戦は集結する。しかし、王国の弱体化を見た周辺国が次々と宣戦し、戦争は長引くこととなる。また家族を人質に取られた王が、封臣たちから家族全員を取り返すまでに4年の月日を必要とした。

 

 西暦1033年1月、さらなる王権の弱体化を望む分権派封臣たちが反乱を起こし、さらなる「分権戦争」を開始する。しかし、前回の「分権戦争」に参加していた有力封臣は、長引く防衛戦争で戦死しており、今回はその子弟たちによるものであった。親たちが前回成功したのだからという甘い考えだったのかもしれない。だが、王国の状況は既にほとんどの対外戦争に勝利しており、軍も数が揃っていた。歴戦の王国戦士たちにより反乱は18ヶ月で鎮圧される。これにより王は再び王国の主導権を握ることとなる。

 

 だが、もうボヘミア王ボジェクⅡ世は王国の拡大や強化を狙うことはなかった。ただ家族や周囲の人物と過ごす日々を大事にしたいという王の願いとそれを許さない現実が晩年の後期である。

 

 ボヘミア王国は二度目の「分権戦争」に勝利した後、「ヴェストファーレンによるアンハルト公爵領の慣習的領有権戦争」にも勝利し、戦乱と混乱の時代に一区切りがつく。その後の王は、一度は内戦により離れ離れになった家族や封臣たちとの狩猟などの時間を大事にするようになる。

 

 もちろん、それでも戦争からは逃れ得なかった。西暦1040年から3年間続いた「第3次ヴェストファーレンによるアンハルト公爵領の慣習的領有権戦争」に敗北、西暦1046年にはドイツ女王の要請により「スコーネによるヴェレティ公爵領請求戦争」に防衛側で参戦し、8ヶ月の戦いの後に勝利するなど、戦乱は続いた。それでも王から戦争を望むことはなかった。

 

 従姉妹であり妻であり王妃であるボフンカとの間には二男五女の七人の子供に恵まれた。今思えば、兄弟殺しとして忌み嫌われたボジェクⅡ世を愛し続けたのは一族で彼女だけだったのかもしれない。そんな彼女も西暦1044年、次男が生まれついての巨人症と痛風、さらに天然痘とその治療の際の医療過誤により死んだ後を追うように53歳で死去する。しかし次男が病死したことで、結果的には若い頃の彼を苦しめた相続問題を自分の子に負わせることはなくなったのである。そのことが晩年の王を一番救ったのかもしれない。

 

 そして若い頃には呼ばれるはずもなかった異名が彼に贈られることになる。その名は名士王ボジェクⅡ世、家族を殺し家族を愛した偉大なる王の異名である。

 

 西暦1050年5月、ボヘミア王国及びソルビア王国、ポーランド王国の国王ボジェクはこの世を去る。誠、業の深い男ではあったが、神はそれを許したのであろうか。安らかな最後であった。

 

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ボヘミアン・ラプソディ 第8話 敬虔王ボジェク

ボヘミアン・ラプソディ

第8話

敬虔王ボジェク

 西暦991年9月、父王フヴァルの短い治世が終わり、新たにボヘミア王に即位したのは37歳の長男ボジェクであった。父王よりも若く即位した新王の治世は、長く安定することが期待されたが、ボジェクという人物には王としてやや問題があった。彼はかなり内向的な性格の持ち主であり、多くの人と接し、またそれらを支配する者としての社交性に欠けていたのである。そしてそのことはボジェクが王になって1年も立たずに表面化する。宮廷という社交の場に彼の精神が悲鳴を上げたのである。彼にとって華美な王宮は黄金で飾られた檻でしかなく、ストレスと王冠の重圧で潰れる日も間近かと思われた。

 そんなある時、玉座に陰鬱とした表情で座る彼に妻、王妃ムラダがこう助言する。
「巡礼の旅に出られたらいかがですか?」と。
 その言葉に鬱屈としていたボヘミア王ボジェクの顔がにわかに晴れ、一条の光がさした。聖地巡礼、王が玉座から解き放たれるのにこれ以上適した理由はなかった。彼はすぐに巡礼のための旅支度を命じ、不在の間の摂政として王妃ムラダを指名した。こうして後に皆から敬虔王と呼ばれることになる王ボジェクの最初の巡礼が始まったのである。時に西暦996年8月のことであった。

 ボヘミア王ボジェクにとって旅こそが生きがいであり、活力の源であった。そして旅によって彼は周囲の尊敬を集めていくことにもなる。なぜならば、王にとって旅は観光旅行ではなく、各地のキリスト教の聖地を巡るものであったからである。もちろんバチカンにも王は訪れており、教皇猊下とも直接見え、イタリア俗語も習得している。このことが後々、ボヘミア王国の急拡大にも繋がっていく。以下がボヘミア王ボジェクの聖地巡礼を記したものである。

996年8月~翌年8月、バチカン巡礼
997年9月~翌年4月、ケルン巡礼

1004年1月~翌年10月、カンタベリー巡礼
1004年12月~翌年11月、バチカン巡礼

 

 残念ながらサンティアゴ・デ・コンポステーラエルサレムには王は巡礼していない。これは単純に王都プラハからの距離が遠く、予算的に都合がつかなかったからである。それでも彼を「敬虔なる」と呼ばしめ、周囲の領土の請求権を教皇から与えられるほどには聖地巡礼の効果は強かった。ボジェクが旅によって支えられ、旅によって偉大になった王であることは疑いようがない。そしてこの間に彼は戦争をしてボヘミア王国の版図を広げていく。以下がボジェクの時代に行われたボヘミア王国の戦争の記録である。

 

999年4月、ルーサティア大族長領の請求権要求
同年同月、「ボヘミアによるルーサティア大族長領請求戦争」を宣戦布告する
1000年2月、「オーストリアによるズノイモ伯爵領請求戦争」が宣戦布告される
同年10月、「ボヘミアによるルーサティア大族長領請求戦争」に勝利
1002年7月、ウィーン陥落、「オーストリアによるズノイモ伯爵領請求戦争」に勝利

1006年2月、シレジア大族長領の請求権要求
同年4月、「ボヘミアによるフォークトラント族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年8月、「王ボジェクの暴政に対する反乱戦争」を宣戦布告される
同年10月、「ボヘミアによるフォークトラント族長領請求戦争」に勝利
1008年4月、「王ボジェクの暴政に対する反乱戦争」に勝利
1009年2月、「ボヘミアによるシレジア大族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年6月、バイエルン王の要請により「独立戦争」に防衛側で参戦
1010年2月、「ボヘミアによるシレジア大族長領請求戦争」に勝利
1012年2月、「独立戦争」に勝利
同年4月、「ソルビア王国」を創設
同年6月、「ボヘミアによるシュプロタヴァ族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年10月、「ボヘミアによるシュプロタヴァ族長領請求戦争」に勝利
同年11月、オポラニア公「豪胆たる」センジミルⅡ世を臣従化
同年同月、サンドミシェ伯ヤロマルを臣従化
同年同月、クヤヴィ公爵領の請求権要求
同年12月、「ボヘミアによるクヤヴィ公爵領請求戦争」を宣戦布告する

 

 こうしてみるとボジェク王が旅をしていない時はほぼ戦争をしていると言っても過言ではないだろう。ボヘミア王国から宣戦布告したものはもちろん、仕掛けられたものや参戦したものを含め、計七回の戦争を行い、これに勝利している。これは歴代ボヘミア王の中でも特に多い。彼は戦争が得意な王ではなかったが、教皇からの信頼がかなり厚く、すぐに請求権を獲得できたことと教皇からの支援金を度々受け取っていたことが、この戦争での勝利へと繋がったのである。これらの戦争で勝ち得た領土により、ボヘミア王国は帝国を名乗れるところまであと一歩に迫るも、戦争と拡大に伴う激務で王の体は確実に蝕まれていたようだ。

 西暦1013年8月、王は「ボヘミアによるクヤヴィ公爵領請求戦争」の最中、59歳にてこの世を去る。在位期間22年であった。5年前から王が「衰弱」していたことを考えるとよく耐えたものだと周囲は囁いた。

 王は愛妻ムラダとの間に5男1女をもうけていた。ムラダは長男カレルとの折が悪かったようで王に次男ボジェクを継承者に強く推し、王はそれをやむなく了承している。そして長男カレルは父王の強い願いで修道院へ入った。しかし、それでもまだ継承者である次男の他に3人の男子がおり、父王ボジェクの死による分割継承で、その後のプシェミスル家は悲劇にみまわれるのであった。

 

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ボヘミアン・ラプソディ  第7話  フヴァル

ボヘミアン・ラプソディ

第7話

フヴァル

 西暦985年9月、臆病王マーティンの長男フヴァルが父からボヘミア王を継承した時、フヴァルは既に50歳になっていた。謙虚で非情、そして好色なこの人物はなによりもその酒浸りな生活で知られていた。長い父の治世の影で王太子として王位を待ち焦がれた男は、そのストレスにより酒に溺れていたのだった。ようやく待望の玉座を受け継いだ時には彼の体はその荒んだ生活により病に蝕まれていた。即位後、すぐに誰もがその治世はすぐに終わると思っおり、その予想は間違っていなかった。

 

 ボヘミア王フヴァルの短い治世の中で一番大きな業績は、「ミルツェニア大族長領請求戦争」に勝利し、ミルツェニア大族長改めマイセン公爵領を獲得したことであろう。これはプラハ公爵領、モラヴィア公爵領を長く統治してきやボヘミア王国拡大の第一歩となる。

 

 次いで大きな業績はチェコ文化を改革して「丘の住人」の伝統を追加したことだろう。これによりプラハの丘にある王都はさらなる発展を遂げることになる。

 

 即位後に病はすぐに治癒していた王であったが、西暦990年7月、彼の体は「衰弱」し始める。死期が近いことを察したフヴァルは5人の息子たちに称号を授与した後、翌991年9月、ボヘミア王フヴァルは56歳でこの世を去る。在位期間6年、先王である父の影に隠れ、酒に溺れた王の短い治世であった。

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ボヘミアン・ラプソディ  第6話  臆病王マーティン後編

ボヘミアン・ラプソディ

第6話

臆病王マーティン後編

 西暦948年2月、臆病王マーティンの母である王太后シビレが酒に溺れた結果、この世を去った。この頃から目を悪くして眼鏡を手放せなくなったボヘミア王であるが、同時に徐々に精神をも病み始める。その始まりとなったのが彼の少年時代に摂政を努め、晩年はオポラニア公の妻となって同盟の架け橋となった母の死であった。その後も兄弟、友人、妻を失い、孤独を深めていった晩年には静かな狂気へと沈んでいく。そんな男の後半生をここから語っていきたい。

 

 西暦949年1月、臆病王は従兄弟であるチャースラフ伯と7年前にボヘミア王暗殺未遂事件を引き起こして光を奪われたリトムニェジツェ伯から称号を剥奪し、接収した彼らの領土を王の直轄地とした。チャースラフ伯はもちろん、過去に罪に問われたリトムニェジツェ伯にも咎はなく王の暴政として宮廷を騒がせた。王もそれは承知していたが、王国にとってこれは必要な処置であると自分に言い聞かせていた。というのも先の戦乱で戦費に困窮した経験から、まずは直轄地を増やし税収を上げることこそが国庫を潤すための第一歩であると考えたからである。こうして国土の発展に尽くした臆病王の残り36年の治世が始まる。

 

 西暦950年以降に行われた臆病王が仕掛け、領土を獲得した戦争は、950年に始まり952年に勝利した「オロモウツ族長領に対する聖戦」のみである。だが、同盟軍の参戦要請や封臣の反乱などにより、ほぼ常に戦時と言っていい状態であったため、父王から領土を継承した兄弟の戦死も少なくなく、それによる領土の継承もあり、ボヘミア王国の国庫も少しずつではあるが豊かになっていった。そして王はその富を使って国土の発展へと繋げていったのである。

 

 臆病王が手掛けた事業にはプラハの丘陵農場の開発、リトムニェジツェのマナーハウスの拡大などがあるが、中でも大きなものはクトナー・ホラ鉱山の開発である。チャースラフにあるこの銀山の開発は、ボヘミア王国の国家予算十年分以上の費用が注がれ、4年以上の年月を要した大規模事業であった。しかし、臆病王が切望していた国庫を潤す源泉の掘り起こし事業の勅令を王が下したのは、彼が亡くなる5ヶ月前であり、彼自身はその完成を見ることはなかった。その前年に翌年には亡くなることをすでに王は予感していたとも言うが、それが長く知識を蓄えた賢者たる王の直感によるものだったのか、それとも長く玉座に座り続けて狂気に陥った老人の妄想によるものだったのかは、わからないままである。

 

 他にも臆病王の長い治世には語り尽くせない物語がたくさんある。東ローマ帝国から来たという旅の職人に作らせた「壮大でしなやかなスケイルアーマー」、妻ゴランドウフトや友人たちから誕生日に送られた「見事な戦斧」といったプシェミスル家に長く伝わることになる見事な武具は、彼の時代のものである。また、饗宴の主催、狩猟への参加、近隣の王侯貴族とのチェス勝負、ライバルであった老婆との喧嘩など、彼は臆病者ではあったが、間違いなく退屈な男ではなかった。戦乱に掻き乱されて危機に陥ったボヘミア王国を導き、その後の発展の基礎を築いた偉大なる臆病王マーティンは西暦985年9月、心不全にてこの世を去った。享年71歳。ボヘミア王玉座に初めて座った時から56年の歳月が流れていた。

 

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ボヘミアン・ラプソディ  第5話  臆病王マーティン前編

ボヘミアン・ラプソディ

第5話

臆病王マーティン前編

 西暦929年10月、ボヘミア王に即位した15歳のマーティンは気性が激しく勇敢で武勇に優れた父ヴァーツラフとはほぼ真逆の人物であった。寛容で謙虚、臆病な性格で成人後にすぐに「臆病者」の異名を得て臆病王の名で呼ばれるような男だった。だが、皮肉なことに勇敢な父王が短い治世で大きな戦争が少なかった王なのに対し、臆病王は50年以上に渡る長い治世といくつもの戦争に巻き込まれ続けた王であった。父のように自身が戦陣に立つことは生涯無く、戦いは全て配下の将軍に任せていた。そして臆病王のボヘミア王国にとって戦争とは華やかな騎士物語のような戦いでなく、ただ嵐が過ぎ去るのを待ち続けるような耐え忍ぶ戦いであった。しかし、厳しい冬に耐えた種子が春にたくましく芽吹くかのごとく、戦乱に耐えた王国は長い治世の間に知識を蓄え優秀な神学者になった臆病王によってその後の繁栄の基礎を築くこととなる。

 

 ここからはボヘミア王マーティン、臆病王マーティンの長い治世の前編を語る。

 西暦930年5月、ボヘミア王マーティンは16歳になり神学者としての教育を終えて成人となる。王太后シビレによる執政体制からはお互いの信頼関係によって速やかに王の親政へと移行するものの、成人した王はお世辞にも優秀な神学者とは言えなかった。

 

 最初に彼が王として取り掛かったことは伴侶を娶ることであった。幸いにもすぐに女王候補の女性は見つかる。相手は東ローマ帝国のビザンティオンに滞在していたシュニク家の娘、16歳のゴランドウフトである。アルメニア語を母語とした文化で育ち、使徒教会の敬虔な信徒でもある。性格はやや奇抜で強欲であったが、なによりも彼女はその美貌で知られていた。異なる文化、異なる宗教ではあったが、王が積極的にアルメニア語を学ぶなど夫婦仲は円満であり、西暦975年6月5日に彼女が61歳にて老衰で王と死別するまでの間に2人は7人の子に恵まれることとなる。王は妻の死後、この世を去るまで新しい妻を迎えなかったという。

 

 頼りない若き王の治世はすぐに長い戦乱の世を迎える。西暦930年9月、ゴレリク族長がボヘミア王への宣戦を布告し開始された「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」を皮切りに次々と戦争が重ねられていく。以下はその年表である。

 

930年9月、「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」が開始

 

同年11月、「フライシュタットによるボヘミア公爵領請求戦争」が開始
 ゴレリク族長軍及びフライシュタット女伯軍に数で負け、同盟関係にあるノルトガウ公に援軍を求めるもノルトガウ公国軍は別の戦争で身動きが取れない。

 

同年12月、「ボレスラフでの戦闘」でボヘミア王国軍がゴレリク族長連合軍に敗北
 ボヘミア王国軍が敗走したことにより、ここから戦争は膠着状態に入る。

 

931年3月、ポラーブ王が息子とボヘミア王の妹との婚約を提案
 すぐにボヘミア王はこの婚約を受諾し、同盟関係を築いた上でポラーブ王に援軍を要請する。ここで敵よりも数の上で有利になり反撃を開始する。

 

932年3月、18ヶ月に及ぶ「ゴレリクによるリトムニェジツェ伯爵領の征服戦争」に勝利
 ゴレリク族長に勝利するも、頼みの綱であるポラーブ王国軍が別の戦争に駆り出され、フライシュタット女伯と再び数に劣る戦いを強いられることになる。

 

933年1月、ボヘミア王オーストリア女公の息子と妹の婚約を提案
 ボヘミア王は妹とオーストリア女公「糞漏らしの」リヒェンツァの息子を婚約させるも、これは完全な誤算であった。フライシュタット女伯はオーストリア女公の封臣のため参戦の要請ができないのである。このままフライシュタット女伯との不利な戦いが続く。

 

934年4月、オポラニア大族長が王太后シビレとの結婚を提案
 すぐにボヘミア王はこの結婚を受諾し、同盟関係を築いた上でオポラニア大族長に援軍を要請するも、オポラニア大族長軍は別の戦争を駆り出されており、援軍は来ず。

 

同年11月、おじのチャースラフ美貌伯ブディスラブが34歳にて戦傷により死去
 戦闘での敗北が続き、プシェミスル家の人間にも戦死者や戦傷者が増え始める。

 

935年11月、「ドゥヴール=フヴォイノでの戦闘」でボヘミア王国軍がフライシュタット女伯軍に勝利
 ポラーブ王国軍とオポラニア大族長軍の援軍が到着したことにより戦況が打開され、ここからボヘミア王国軍とその同盟軍による連戦連勝が続く。

 

937年1月、フライシュタットを陥落させ、フライシュタット女伯ジュディスを捕縛
同年同月、6年に及ぶ「フライシュタットによるボヘミア公爵領請求戦争」に勝利


 ここで930年9月から開始された2つの戦争がボヘミア王国の勝利にて終結する。王国に1年間の短い平和が訪れる。

 

938年1月、「ボヘミアによる女族長ヴィエラのオパヴァ伯爵領請求戦争」を開始
同年11月、「ボヘミアによる女族長ヴィエラのオパヴァ伯爵領請求戦争」に勝利
 938年1月の王宮での謁見から開始された10ヶ月の戦争にボヘミア王国軍は勝利する。ここから再び1年と少しの平和の後、同盟関係による長い戦乱の時代が幕を開ける。

 

940年7月、ポラーブ王の要請により「ドブジニ文化スラブ真言教信徒の反乱」に参戦
同年8月、オポラニア大族長の要請により「シュフィエボジンによるブジェク族長領の征服戦争」に参戦
941年5月、オーストリア公の要請により「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に参戦
942年3月、ポラーブ王の要請により「ポズナニのポラーブ従属化戦争」に参戦
同年6月、「公爵ランペルトの暴政に対する反乱戦争」が白紙和平
同年10月、ポラーブ王の要請により「ポメレリアによるシュチトノ族長領の征服戦争」に参戦
同年11月、オーストリア公の要請により「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に参戦
同年12月、「ドブジニ文化スラブ真言教信徒の反乱」に勝利
943年1月、ポラーブ王の要請により「ユランによるレダリア族長領の征服戦争」に参戦
同年11月、「シュフィエボジンによるブジェク族長領の征服戦争」に敗北
945年3月、「公爵ラントペルトの暴政に対する反乱戦争」に敗北
947年1月、「ユランによるレダリア族長領の征服戦争」に敗北
同年4月、「ポメレリアによるシュチトノ族長領の征服戦争」に敗北
同年12月、「ポズナニのポラーブ従属化戦争」に勝利

 

 西暦947年、約7年に及ぶこの地域での戦乱の時代が終結する。ボヘミア王国は全て防衛側である同盟国の要請による参戦ではあったが、あまりに消極的な参加は同盟の信用を傷つけることになるため、出来得る限りは戦う方針で戦争に臨んだ。だが、先の戦争から続く負担もあり、国庫金が不足する場面も多々あったので、思うように戦うことのできない状態でもあった。即位して約19年、臆病王マーティンがここまでの戦争で学んだことは、やはり金が無くては国は維持できないということであった。そしてそれが後のボヘミア王国のチャースラフ伯領にある銀山、クトナー・ホラ鉱山の本格的な採掘へと導かれることになる。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。

ボヘミアン・ラプソディ  第4話  荒淫王ヴァーツラフ

ボヘミアン・ラプソディ

第4話

荒淫王ヴァーツラフ

 西暦909年、後に初代ボヘミア王に即位し荒淫王という不名誉なあだ名で知られるようになるヴァーツラフが父からボヘミア公爵位を継承した時、彼はまだ12歳の少年であった。国政は執政体制で行われ、父ボジヴォイの3人目の妻であり、ヴァーツラフの義母であったウェセックス家の若きエドギフが摂政に就任する。そして新しいボヘミア公爵が生まれて間もなく、異教徒であるドリイェジュジャニィ女族長によるボヘミア公国への侵略攻撃が開始される。もちろん幼い公爵に指揮権はない。戦争は大人たちの手で進められていく。しかし、子どもには子どもの大人たちとはまた違う闘いがあった。

 少年時代のヴァーツラフを苦しめたのが、いじめっ子グニエヴォシュの存在であった。グニエヴォシュは廷臣であるサンドミェシュ家の子であったが、子ども同士の付き合いに主従の関係など無く、彼とヴァーツラフの間には対立が生まれ、そしてそれは幼い公爵の木でできた大事な友達を破壊されたことで決定的となった。友の仇を討つべく公爵は手袋をいじめっ子に叩きつける。決闘はすぐに行われることになった。木馬に跨り、枝の槍を持った二人の騎士が、プラハ城の中庭で他の少年たちが見守る中、にらみ合う。彼らは決闘は騎士らしく馬上槍試合、いわゆるジョストで行われることになった。周囲の子どもたちによる掛け声とともに二人の少年の木馬が互いにぶつかり合うように駆け始める。鈍く光る枝の槍は相手の胸へを狙いを定める。不敵に笑ういじめっ子と必死の形相で歯を食いしばるいじめられっ子。雌雄は一瞬で決まった。気がつけば胸を突かれたグニエヴォシュは痛みで地面に倒れ転げ、状況を把握できないままのヴァーツラフは立ち尽くしていた。すぐに周囲から上がった歓声によって公爵はその結果を知る。これが彼が生涯忘れることのない初めての試合とその勝利であった。

 西暦912年、ボヘミア公ヴァーツラフは16歳になったことで成人した。二年間に渡り続いたドリイェジュジャニィ女族長による侵略も摂政や廷臣たちの努力によって撃退することができた。短気で勇敢、執念深く、怒りっぽいという戦士としてはともかく為政者としてはやや問題のある人物となったボヘミア公の最初の仕事は結婚相手探しであった。彼とその周囲は過去の侵略の経験から同盟軍の数を重視し、アルザス戦闘団という傭兵団の団長の子であるウダルリヒング家のシビレという17歳の娘を選んだ。彼女は少し気前が良すぎるという点はあるものの公正で社交的であり、公爵夫人としては最適な人物であった。この1歳年上の女性がヴァーツラフにとって唯一にして無二の生涯の伴侶となり、後に二人の間には7人の子が誕生することになる。

 ここでヴァーツラフという人物にとっての謎が一つ提起される。この後、ヴァーツラフはボヘミア王となるが、すぐに「荒淫の」という異名を周囲から授けられ、後世に荒淫王ヴァーツラフと呼ばれることになるのだが、彼自身は妻のシビレ以外と関係を持ったという記録もなければ、私生児がいたという記録もない。他の女性とのラブロマンスにうつつを抜かすような男でもなかった。ではなぜ「荒淫の」という異名がついたのか。おそらくは彼の性格や人間関係が災いしたのではなかろうか。その直情的で激しい性格はキリスト教の慈愛の精神からは程遠く、ヴァーツラフは教会勢力に嫌悪されていた。事実、歴代のボヘミア大司教からの受けは良くなく、特に関係が悪かった大司教はあまりにも融通が利かないため激怒した彼の命令で暗殺されたとの噂もあったぐらいである。また弟であり、非情にして臆病、またその美貌でも知られるチャースラフ伯「美しき」ブディスラヴとの関係も最悪であり、同時にこの弟は教会勢力と強い繋がりがあったという。おそらくはこれらの修復できないまでに破壊された関係が、彼に「荒淫の」という根も葉もない悪名をつけさせたのではないかと推測されるところである。

 西暦915年、ボヘミア公ヴァーツラフはニトラ公爵に対しズノイモ伯領請求戦争を開始する。二年続いたこの戦争に圧勝したボヘミア公爵はさらにニトラ公爵へ圧力をかけ続け、西暦919年にはモラヴィア爵位をニトラ公爵から正式に簒奪。こうしてヴァーツラフはボヘミア王位を創設すべく基盤を整える。そしてさらに9年の歳月を費やし、王として壮麗な戴冠式へと望むべく準備と蓄財を行った。

 西暦928年、ヴァーツラフはプラハの丘の教会でローマ教皇より聖油を注がれ、王冠を戴いた。ボヘミア公爵を継承した少年が19年の月日の後に初代ボヘミア王になった瞬間であった。時にヴァーツラフ31歳。いじめっ子から勝利をもぎとった少年は大人の男、戦士、夫、父親、王へと成長していた。ボヘミア王国の王都となったプラハはその日、盛大な祝祭の熱気に沸いたという。

 「光が強ければ影もまた濃い」と偉大なる詩人は言ったという。ボヘミア王になったヴァーツラフという強い光を誰もが喜ぶわけではない。強い光の下で濃い影にならざるを得ない存在もいる。そして時に濃い影によって覆い尽くされる光もある。ある夜の晩餐で好物の鴨肉にかじりついたその男にとって、それは最後の食事となった。初代ボヘミア王ヴァーツラフ、またの名を荒淫王ヴァーツラフ、今はの際で彼の脳裏に浮かんだ人物は誰であったのだろうか。時に西暦929年、ヴァーツラフは33歳で毒殺された。ボヘミア王としては即位後、わずか1年半という短い治世であった。亡き王が最後に口にした鴨肉のローストから猛毒の薬物が発見されたが、それを盛るように指示した人物は最後までわからなかった。ただこの前年、長年に渡って互いの憎悪をぶつけてきた対象であった王弟のチャースラフ伯「美しき」ブディスラヴから兄王へ金貨の詰まった箱が送られてきた後に王が体調不良になったというのが記録されている。さらに王が亡くなったこの年には彼とフラデツ女伯との間での不貞行為が発覚し、妊娠中のフラデツ女伯は逮捕され、称号を剥奪されていた。王の暗殺はこの追い詰められた弟によるものとの噂は絶えなかったが、確たる証拠もまたなかった。

 後にこのブディスラヴも戦争によって負った重い傷が悪化し、その美しい顔と腕を失い34歳の若さでこの世を去っている。

 レスリングと妻シビレを愛した荒淫王ヴァーツラフ。その彼が愛妻とともにプラハの街で材料を求め、調合したという「ヴァーツラフの香水」。戴冠式で財を使い果たした王ができる限り節約したいという思いでその材料を求めたという伝説が小さな香水瓶とともにプシェミスル家には残っているという。

 

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