ボヘミアン・ラプソディ 第9話 名士王ボジェクⅡ世

ボヘミアン・ラプソディ
第9話
名士王ボジェクⅡ世

 

 西暦1013年、11世紀に入って初めてボヘミア王に即位したボジェクⅡ世の治世は大きく三つに分けられる。偉大なる父王たる敬虔王の戦争の後始末と兄弟殺しを犯してまで王国の安定を求めた前期、封臣たちの反乱による二度の「分権戦争」とその敗北と勝利による混乱の中期、家族を愛したことで名士王と呼ばれ、そしてその家族を失う晩年の後期である。

 

 ではまず前期から語っていこう。

 

 父王から19歳の若さでボヘミア王を継承したボジェクⅡ世であったが、彼は男兄弟が多かった。彼自身も次男であり、継承権は生母たる王妃の強力な推薦と長男の修道院への出家によるものであった。三男でソルビア王を継承し、ボヘミア王国から独立した同じ名前のボジェクⅡ世、四男はシレジア公爵、五男は二つの伯爵領を継承した。結果、王位を継いだとはいえ、ボヘミア王に残されたのは三つの伯爵領であり、このままでは常備軍の維持費にすら困窮する有様であった。さらに父王が始めた戦争は継続中であり、戦費も重くのしかかっていく。しかも弟たちはまだ未成年であり、戦死などもありえず、このままの直轄領土では大きく広がったボヘミア王国の封臣たちを束ねることは難しい。内向的で忍耐強く、謙虚な彼であったが、王として孤独に悩んだ結果は血塗られた道であった。

 

 西暦1014年11月、14歳のソルビア王ボジェクⅡ世が不審死によって最後を遂げた。死んだ王が最後に食べた菓子に毒が盛られていたのだ。そしてその菓子はソルビア王の継承権を持つ兄王から贈られたものであった。ボヘミア王は公式には否定し続けたものの、冷酷な殺人者、非道な肉親殺しとして世間から白い目で見られるようになる。

 

 昨年の10月にようやく父王が始めた戦争から端を発する一連の戦乱に区切りがついた西暦1018年1月、今度は6歳で2つの伯爵領を持つボヘミア王子が高所から落下して死亡するという痛ましい不審死事件がおきる。疑惑は肉親殺しの兄王にして伯爵領の継承権を持つボジェクⅡ世へと向けられた。事実、幼子の殺害に関わった人物が彼の名前を暴露している。もはや兄弟を殺すことに躊躇しなくなったと思われた男は、一族から忌み嫌われるようになる。そして声高に王の罪を糾弾したのが、ボジェクⅡ世の実兄で神の道へと進んだカレル・プシェミスルであった。カレルは自分から全てを奪っただけでなく、敬虔王と呼ばれた父の名を汚す弟を当然許すはずもなかった。しかし、兄カレルはただの修道僧であり、弟ボジェクⅡ世はボヘミア王であり、ソルビア王であった。

 

 西暦1019年5月、ボヘミア王ボジェクⅡ世の兄カレルが何者かに暗殺される。もちろん二人の弟を殺したことと死んだカレルと激しく対立していたことで知られているボジェクⅡ世の関与が疑われたが、この件に関してはその後もわからず仕舞いであった。

 

 こうして兄弟三人が死んだことで安定した税収とそれによる統治能力を手に入れたかに見えたボヘミア王であったが、ここまでの悪評が彼の足元をすくうことになる。それが続く中期に発生することになる。

 

 西暦1024年6月、ボヘミア王は「ボヘミアによるヴィスワ公爵領の慣習的領有権戦争」を宣戦布告する。この年の4月にはポーランド王国を簒奪し、三王国の王として君臨していたボジェク二世は、父が成し得なかった強大なる帝国の成立を実現すべく、動き出したのだった。しかし、開戦して半年後の12月、封臣たちが行動に出る。兄カレルが死んだ年に可決、制定した王の権力を強化した新たなる王権法にかねてから反発していた封臣たちが兵を挙げたのである。「分権戦争」の始まりである。

 

 ここで注意したいのが、この反乱は王の権力を弱めることを目的としたものであり、王国の解体や王国からの独立、王の退位を望んだものでないということだ。封臣たちは王への権力集中に不満を抱いたのであり、ボヘミア及びソルビア、ポーランド連合王国とその王そのものに対する不満ではなかった。だが、反乱は反乱であり、この内戦によって王国は一時的ながらも混乱状態へと突入する。

 

 対外戦争と内戦を抱えてしまったボヘミア王は焦ってはいたが、これまでの王とその歴史同様にプラハの丘の城は陥落しないであろうし、きっと王国軍が敵を打ち破るであろうと思い込んでいた。だがそれは開戦して9ヶ月後、プラハ城を包囲され、そして救援に来た王国軍が数に勝る反乱軍に敗北するまでであった。王も敵がまさかここまでの数にまで膨れ上がるとは思ってはいなかったのである。

 

 そして西暦1026年6月、包囲されていたプラハ城は外敵ではなく反乱によって初めて陥落し、プシェミスル王家の人々は囚われの身となる。もちろん王も例外ではなかった。そしてその後、すぐに反乱軍の要求が囚われの王によって聞き入れられ、内戦は集結する。しかし、王国の弱体化を見た周辺国が次々と宣戦し、戦争は長引くこととなる。また家族を人質に取られた王が、封臣たちから家族全員を取り返すまでに4年の月日を必要とした。

 

 西暦1033年1月、さらなる王権の弱体化を望む分権派封臣たちが反乱を起こし、さらなる「分権戦争」を開始する。しかし、前回の「分権戦争」に参加していた有力封臣は、長引く防衛戦争で戦死しており、今回はその子弟たちによるものであった。親たちが前回成功したのだからという甘い考えだったのかもしれない。だが、王国の状況は既にほとんどの対外戦争に勝利しており、軍も数が揃っていた。歴戦の王国戦士たちにより反乱は18ヶ月で鎮圧される。これにより王は再び王国の主導権を握ることとなる。

 

 だが、もうボヘミア王ボジェクⅡ世は王国の拡大や強化を狙うことはなかった。ただ家族や周囲の人物と過ごす日々を大事にしたいという王の願いとそれを許さない現実が晩年の後期である。

 

 ボヘミア王国は二度目の「分権戦争」に勝利した後、「ヴェストファーレンによるアンハルト公爵領の慣習的領有権戦争」にも勝利し、戦乱と混乱の時代に一区切りがつく。その後の王は、一度は内戦により離れ離れになった家族や封臣たちとの狩猟などの時間を大事にするようになる。

 

 もちろん、それでも戦争からは逃れ得なかった。西暦1040年から3年間続いた「第3次ヴェストファーレンによるアンハルト公爵領の慣習的領有権戦争」に敗北、西暦1046年にはドイツ女王の要請により「スコーネによるヴェレティ公爵領請求戦争」に防衛側で参戦し、8ヶ月の戦いの後に勝利するなど、戦乱は続いた。それでも王から戦争を望むことはなかった。

 

 従姉妹であり妻であり王妃であるボフンカとの間には二男五女の七人の子供に恵まれた。今思えば、兄弟殺しとして忌み嫌われたボジェクⅡ世を愛し続けたのは一族で彼女だけだったのかもしれない。そんな彼女も西暦1044年、次男が生まれついての巨人症と痛風、さらに天然痘とその治療の際の医療過誤により死んだ後を追うように53歳で死去する。しかし次男が病死したことで、結果的には若い頃の彼を苦しめた相続問題を自分の子に負わせることはなくなったのである。そのことが晩年の王を一番救ったのかもしれない。

 

 そして若い頃には呼ばれるはずもなかった異名が彼に贈られることになる。その名は名士王ボジェクⅡ世、家族を殺し家族を愛した偉大なる王の異名である。

 

 西暦1050年5月、ボヘミア王国及びソルビア王国、ポーランド王国の国王ボジェクはこの世を去る。誠、業の深い男ではあったが、神はそれを許したのであろうか。安らかな最後であった。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。