ボヘミアン・ラプソディ 第2話 ホスチヴィート

ボヘミアン・ラプソディ
第2

ホスチヴィート

 ホスチヴィートが父ネクランの地位と土地を受け継いだと時、既に55歳という高齢であった。だが彼は正直で節制に優れ、建築家、さらには金儲けの達人として知られていた。

 ホスチヴィートの16年の治世における最大の功績は内戦と侵略からボヘミアの地を守ったこと、さらにはその手腕で部族の土地であったプルゼニとドウドレブィの2つの地を封建領土へと改革したことであろう。

 内戦はネクランからボレスラフとチャースラフの地を受け継いだ甥の子であるセゼマによる反乱であるが、この戦争はホスチヴィートによる策動の結果であった。当時8歳の幼子であったセゼマに力は無く、彼がその力を蓄える前にその勢力を削いでおこうという公爵の思惑が働いたのだ。セゼマは未だスラブの古い教えに従っており、ホスチヴィートはそのことを理由に彼から称号を剥奪しようとした。結果、セゼマはボヘミアのスラブ教勢力に担ぎ出されて反乱の頭目となってしまったのである。

 西暦876年に蜂起した反乱であったが、1年後にはボレスラフは陥落、セゼマはその身を捕らえられ、全ての称号を剥奪されてしまう。全てはホスチヴィートの企み通りに事が運んだ戦いであった。

 西暦885年、突如として北よりルーサティア大族長ラドミルの4000余りの大軍がプルゼニを侵略すべく進軍を開始。一方、守備側であるボヘミア公国軍は総数1725と半数以下であり、また同盟関係にあったオポラニア大族長への援軍として北東のクヤヴィ大族長との戦いの最中であった。これは当然、軍の留守を狙った奇襲に他ならなかった。 ボヘミア公国の首都プラハにいたホスチヴィートは侵略の報を聞き、すぐにオポラニア大族長へと参戦を要請する親書を送る。これに対しオポラニア大族長はすぐに参戦を表明、それでも数の上ではこちらが劣っていた。しかも、クヤヴィ大族長に対し有利に戦いは進んではいるというものの未だ継戦中である。形勢は極めて不利である。

 西暦887年、オポーレの戦いでの勝利によりクヤヴィ大族長が敗北を認める。これにより、ようやくボヘミア公国軍の反転攻勢が可能となった。勇敢王とあだ名されるラドミル(ルーサティア大族長からポラーブ王へと成り上がっていた)の侵略からすでに2年近くが経過、2領土(ジャテツ、プルゼニ)が陥落していたものの、丘の上の堅牢なプラハ城は健在であり、まだ戦の大勢は決していなかった。


 ボヘミア公ホスチヴィートの本領はここから発揮される。まず先の戦いで捕虜にした族長の家族への身代金を要求、次いでローマ教皇へ異教徒との聖戦の為の軍資金を要求、これらの要求を全て押し通して集めた金で傭兵を雇用、同盟軍と併せて5000の軍勢を用意、プラハ城を包囲するポラーブ王の3800(包囲戦による疲弊により減少)の軍勢との決戦に臨んだ。


 西暦887年8月13日、プラハの戦いはボヘミア公国軍の圧勝で決した。ボヘミア公国軍の犠牲390に対し、ポラーブ王国軍の犠牲は1300を超え、敵将も捕縛される。

 以後、ボヘミア公国軍はジャテツとプルゼニを解放、最後の戦いであるプルゼニの戦いでの勝利によりポラーブ王は敗北を認める。時に西暦888年、侵略開始から3年が経過していた。

 西暦892年、長年の懸案であった部族領ドウドレブィの封建化を見届けるとボヘミア公ホスチヴィートは老衰にて穏やかにその16年の治世と72年の生涯に幕を閉じた。父から受け継いだ領土を守り、国土の改革に生涯を捧げた為政者であった。狩猟好きの彼が残した鹿の角飾りはプシェミスル家に長く伝えられたという。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。