ボヘミアン・ラプソディ 第8話 敬虔王ボジェク

ボヘミアン・ラプソディ

第8話

敬虔王ボジェク

 西暦991年9月、父王フヴァルの短い治世が終わり、新たにボヘミア王に即位したのは37歳の長男ボジェクであった。父王よりも若く即位した新王の治世は、長く安定することが期待されたが、ボジェクという人物には王としてやや問題があった。彼はかなり内向的な性格の持ち主であり、多くの人と接し、またそれらを支配する者としての社交性に欠けていたのである。そしてそのことはボジェクが王になって1年も立たずに表面化する。宮廷という社交の場に彼の精神が悲鳴を上げたのである。彼にとって華美な王宮は黄金で飾られた檻でしかなく、ストレスと王冠の重圧で潰れる日も間近かと思われた。

 そんなある時、玉座に陰鬱とした表情で座る彼に妻、王妃ムラダがこう助言する。
「巡礼の旅に出られたらいかがですか?」と。
 その言葉に鬱屈としていたボヘミア王ボジェクの顔がにわかに晴れ、一条の光がさした。聖地巡礼、王が玉座から解き放たれるのにこれ以上適した理由はなかった。彼はすぐに巡礼のための旅支度を命じ、不在の間の摂政として王妃ムラダを指名した。こうして後に皆から敬虔王と呼ばれることになる王ボジェクの最初の巡礼が始まったのである。時に西暦996年8月のことであった。

 ボヘミア王ボジェクにとって旅こそが生きがいであり、活力の源であった。そして旅によって彼は周囲の尊敬を集めていくことにもなる。なぜならば、王にとって旅は観光旅行ではなく、各地のキリスト教の聖地を巡るものであったからである。もちろんバチカンにも王は訪れており、教皇猊下とも直接見え、イタリア俗語も習得している。このことが後々、ボヘミア王国の急拡大にも繋がっていく。以下がボヘミア王ボジェクの聖地巡礼を記したものである。

996年8月~翌年8月、バチカン巡礼
997年9月~翌年4月、ケルン巡礼

1004年1月~翌年10月、カンタベリー巡礼
1004年12月~翌年11月、バチカン巡礼

 

 残念ながらサンティアゴ・デ・コンポステーラエルサレムには王は巡礼していない。これは単純に王都プラハからの距離が遠く、予算的に都合がつかなかったからである。それでも彼を「敬虔なる」と呼ばしめ、周囲の領土の請求権を教皇から与えられるほどには聖地巡礼の効果は強かった。ボジェクが旅によって支えられ、旅によって偉大になった王であることは疑いようがない。そしてこの間に彼は戦争をしてボヘミア王国の版図を広げていく。以下がボジェクの時代に行われたボヘミア王国の戦争の記録である。

 

999年4月、ルーサティア大族長領の請求権要求
同年同月、「ボヘミアによるルーサティア大族長領請求戦争」を宣戦布告する
1000年2月、「オーストリアによるズノイモ伯爵領請求戦争」が宣戦布告される
同年10月、「ボヘミアによるルーサティア大族長領請求戦争」に勝利
1002年7月、ウィーン陥落、「オーストリアによるズノイモ伯爵領請求戦争」に勝利

1006年2月、シレジア大族長領の請求権要求
同年4月、「ボヘミアによるフォークトラント族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年8月、「王ボジェクの暴政に対する反乱戦争」を宣戦布告される
同年10月、「ボヘミアによるフォークトラント族長領請求戦争」に勝利
1008年4月、「王ボジェクの暴政に対する反乱戦争」に勝利
1009年2月、「ボヘミアによるシレジア大族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年6月、バイエルン王の要請により「独立戦争」に防衛側で参戦
1010年2月、「ボヘミアによるシレジア大族長領請求戦争」に勝利
1012年2月、「独立戦争」に勝利
同年4月、「ソルビア王国」を創設
同年6月、「ボヘミアによるシュプロタヴァ族長領請求戦争」を宣戦布告する
同年10月、「ボヘミアによるシュプロタヴァ族長領請求戦争」に勝利
同年11月、オポラニア公「豪胆たる」センジミルⅡ世を臣従化
同年同月、サンドミシェ伯ヤロマルを臣従化
同年同月、クヤヴィ公爵領の請求権要求
同年12月、「ボヘミアによるクヤヴィ公爵領請求戦争」を宣戦布告する

 

 こうしてみるとボジェク王が旅をしていない時はほぼ戦争をしていると言っても過言ではないだろう。ボヘミア王国から宣戦布告したものはもちろん、仕掛けられたものや参戦したものを含め、計七回の戦争を行い、これに勝利している。これは歴代ボヘミア王の中でも特に多い。彼は戦争が得意な王ではなかったが、教皇からの信頼がかなり厚く、すぐに請求権を獲得できたことと教皇からの支援金を度々受け取っていたことが、この戦争での勝利へと繋がったのである。これらの戦争で勝ち得た領土により、ボヘミア王国は帝国を名乗れるところまであと一歩に迫るも、戦争と拡大に伴う激務で王の体は確実に蝕まれていたようだ。

 西暦1013年8月、王は「ボヘミアによるクヤヴィ公爵領請求戦争」の最中、59歳にてこの世を去る。在位期間22年であった。5年前から王が「衰弱」していたことを考えるとよく耐えたものだと周囲は囁いた。

 王は愛妻ムラダとの間に5男1女をもうけていた。ムラダは長男カレルとの折が悪かったようで王に次男ボジェクを継承者に強く推し、王はそれをやむなく了承している。そして長男カレルは父王の強い願いで修道院へ入った。しかし、それでもまだ継承者である次男の他に3人の男子がおり、父王ボジェクの死による分割継承で、その後のプシェミスル家は悲劇にみまわれるのであった。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。