ボヘミアン・ラプソディ 第3話 ボジヴォイ

ボヘミアン・ラプソディ

第3話

ボジヴォイ

 西暦892年、父ホスチヴィートからボヘミア公爵位を継承したボジヴォイ、齢40。この人物は為政者としては交渉と陰謀に長けており、決して無能ではなかったが、人として評価できる男ではなかった。嘘つきでシニシズム、非情にして短気、そして疑心暗鬼。人として好まれる要素がまるでないのである。もちろん君主がいい人である必要はないが、少なくともそう見える人である必要はある。ボジヴォイは人の心がわかる男ではなかった。そしてそれは周知の事実であった。そのことが最も災いしたのが家族関係、より正しくは夫婦関係である。

 ボジヴォイの妻、34歳のルドミラはボヘミア公爵の下でリトムニェジツェ伯爵を継承してきたプソヴァ家の出であった。そして現在のプソヴァ家の当主は彼女であり、リトムニェジツェ伯の地位も彼女が継承していた。そのルドミラは熱心なキリスト教徒であった。つまり、神や宗教という存在に常日頃から冷笑的に対応していた夫のボジヴォイとの関係が良いはずがなかった。さらに悪いことに二人の間には子供が二人いたが、両方とも娘であった。しかもすでに長女は婚約しており、その相手は父ホスチヴィートの代に共に戦い国難を乗り越えたオポラニア大族長であった。公爵夫妻の間に男子ができないまま、長女が他家の男子を産めば、ボヘミア公爵の地位はその男子へと流れ、プシェミスル家存続の危機である。国難を救った婚姻関係が、そのまま一族の危機に繋がるとはなんという皮肉であろうか。もちろん冷え切った二人の間に新しい子が授けられる気配はない。

 ボジヴォイがプシェミスル家の当主になって最初に画策したことは、この冷たい夫婦関係に終止符を打つことであった。彼の中に夫婦関係を改善するという選択肢はなかったようだ。しかし、キリスト者としてあまりに不適格なこの男に天国の鍵の管理者が離婚を許すはずもない。次にボジヴォイは妻の暗殺を企む。だが、これもすぐに計画が露見し、ほぼその望みが叶う可能性はなくなってしまう。それでもこの短気な男は諦めない。なりふり構わない態度に出た公爵は、妻である女伯を逮捕投獄しようと衛兵を差し向ける。それをすぐに察知した女伯は自分の領地に逃れ、暴虐的な君主であり夫に宣戦布告。フラデツ伯、リトムニェジツェ女伯の妹であるジャテツ女伯もこれに呼応して兵を挙げる。西暦893年、ボジヴォイが公爵になって1年足らずでボヘミア公国は内戦へと突入した。

 ボジヴォイは人としては問題のある男だが、君主としては無能ではない。妻である女伯とそれに続く封臣の反乱は予想の範囲内であった。彼らの総兵力は1000にも満たない。ボジヴォイはその倍近くの兵力を用意していた。反乱戦争における戦いはほぼ一方的な虐殺の連続であった。そして西暦894年、反乱戦争は16ヶ月で終息する。もちろん公爵の勝利でである。3人の反乱首謀者は逮捕投獄された。結果、非情なる夫によって、その妻は斬首という冷酷極まりない手段で強引な離婚をさせられてしまうこととなる。

 酷薄なる公爵ボジヴォイはすぐに再婚する。相手は名もなき家のアンシアというランゴバルト出身の25歳の若い女であった。なぜ公爵たる大貴族のボジヴォイが庶民の女性を妻に迎えたかといえば、彼女がその美貌と頭脳明晰で知られていたからである。アンシアは学はなかったが、交渉術に非常に長けており、おそらくボジヴォイは酒宴などの席で彼女を見初めたのであろう。ともかくアンシアは庶民から公爵夫人へと成り上がったわけである。ただそれが必ずしも幸福へ至る道とは限らないのがこの世界のつらいところである。

 アンシアはボジヴォイと結婚して2年後にはプシェミスル家待望の男子である長男ヴァーツラフを、その後も次男ホスチヴィート、三男ブディスラヴ、そして双子の男子プレフと女子ユスティナと5人の子宝に恵まれる。夫であるボジヴォイもアンシアとの関係を良くするために彼女の母語であるイタリア俗語を学ぼうと努力するなど(結果は失敗だった)夫婦仲も円満に見えた。しかし、アンシアはボジヴォイ同様に人として美徳とは言い難い性質があった。それは好色で嗜虐的、さらに短気であるという点である。好色に関しては子沢山という利点もあったが、親しい男の家臣も多く噂もあった。だが、それは噂でしか無く、ボジヴォイも相手にはしなかった。それよりも、もう一方の嗜虐的で短気というのが非常に不味かった。アンシアによる暗殺計画が二度も発覚したのである。一度目の目標はボヘミア公国の家令ドベシュ。この罪は君主たるボジヴォイによって恩赦され投獄も免れた。けれど、この時に投獄されていた方が彼女にとっては良かったのかもしれない。なぜならば二度目の目標はボヘミア公爵である夫のボジヴォイであったからである。アンシアがなぜ夫を殺害しようとしたかは今となってはわからないが、疑心暗鬼の夫にとっては強烈な裏切りを感じたことは想像に難くない。非情なる夫ボジヴォイは君主たる公爵として裏切り者である妻に前妻に下したのと同じ命令を行う。庶民の出ながら生まれ持っての美貌と明晰な頭脳で知られた女は公爵夫人として斬首台の露と消えた。33歳の若さであった。この時、まだ幼子であった5人の子どもたちもまた過酷な運命に晒されることになるが、それはまた別の機会に語られることになる。

 個人としてのボジヴォイの人生は不安定かつ血なまぐさいものであったが、公爵としてのボジヴォイの治世は安定したものであった。西暦897年にはブルノ伯領を、同じく901年にはプシェロフ伯領を獲得している。侵略戦争もなく、内戦も一度目同様にボジヴォイの画策によるものであり、先妻の妹であるジャテツ女伯から称号を剥奪するためのものであった。ボヘミア公国は領土の拡大によって繁栄し、国庫にも潤沢な資金が蓄えられることになった。最初に記したように彼は君主としては有能であったのである。

 西暦909年、前妻アンシアを手にかけて以後、心身衰弱していたボヘミア公ボジヴォイはそのまま脳卒中で倒れ、帰らぬ人となる。享年57歳、在位期間17年であった。祖父や父が70代まで生きたことを考えると短命ではあったが、彼にとってはようやく人を疑い続け、罪を重ね続ける生き方から解放された瞬間だったのかもしれない。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。

ボヘミアン・ラプソディ 第2話 ホスチヴィート

ボヘミアン・ラプソディ
第2

ホスチヴィート

 ホスチヴィートが父ネクランの地位と土地を受け継いだと時、既に55歳という高齢であった。だが彼は正直で節制に優れ、建築家、さらには金儲けの達人として知られていた。

 ホスチヴィートの16年の治世における最大の功績は内戦と侵略からボヘミアの地を守ったこと、さらにはその手腕で部族の土地であったプルゼニとドウドレブィの2つの地を封建領土へと改革したことであろう。

 内戦はネクランからボレスラフとチャースラフの地を受け継いだ甥の子であるセゼマによる反乱であるが、この戦争はホスチヴィートによる策動の結果であった。当時8歳の幼子であったセゼマに力は無く、彼がその力を蓄える前にその勢力を削いでおこうという公爵の思惑が働いたのだ。セゼマは未だスラブの古い教えに従っており、ホスチヴィートはそのことを理由に彼から称号を剥奪しようとした。結果、セゼマはボヘミアのスラブ教勢力に担ぎ出されて反乱の頭目となってしまったのである。

 西暦876年に蜂起した反乱であったが、1年後にはボレスラフは陥落、セゼマはその身を捕らえられ、全ての称号を剥奪されてしまう。全てはホスチヴィートの企み通りに事が運んだ戦いであった。

 西暦885年、突如として北よりルーサティア大族長ラドミルの4000余りの大軍がプルゼニを侵略すべく進軍を開始。一方、守備側であるボヘミア公国軍は総数1725と半数以下であり、また同盟関係にあったオポラニア大族長への援軍として北東のクヤヴィ大族長との戦いの最中であった。これは当然、軍の留守を狙った奇襲に他ならなかった。 ボヘミア公国の首都プラハにいたホスチヴィートは侵略の報を聞き、すぐにオポラニア大族長へと参戦を要請する親書を送る。これに対しオポラニア大族長はすぐに参戦を表明、それでも数の上ではこちらが劣っていた。しかも、クヤヴィ大族長に対し有利に戦いは進んではいるというものの未だ継戦中である。形勢は極めて不利である。

 西暦887年、オポーレの戦いでの勝利によりクヤヴィ大族長が敗北を認める。これにより、ようやくボヘミア公国軍の反転攻勢が可能となった。勇敢王とあだ名されるラドミル(ルーサティア大族長からポラーブ王へと成り上がっていた)の侵略からすでに2年近くが経過、2領土(ジャテツ、プルゼニ)が陥落していたものの、丘の上の堅牢なプラハ城は健在であり、まだ戦の大勢は決していなかった。


 ボヘミア公ホスチヴィートの本領はここから発揮される。まず先の戦いで捕虜にした族長の家族への身代金を要求、次いでローマ教皇へ異教徒との聖戦の為の軍資金を要求、これらの要求を全て押し通して集めた金で傭兵を雇用、同盟軍と併せて5000の軍勢を用意、プラハ城を包囲するポラーブ王の3800(包囲戦による疲弊により減少)の軍勢との決戦に臨んだ。


 西暦887年8月13日、プラハの戦いはボヘミア公国軍の圧勝で決した。ボヘミア公国軍の犠牲390に対し、ポラーブ王国軍の犠牲は1300を超え、敵将も捕縛される。

 以後、ボヘミア公国軍はジャテツとプルゼニを解放、最後の戦いであるプルゼニの戦いでの勝利によりポラーブ王は敗北を認める。時に西暦888年、侵略開始から3年が経過していた。

 西暦892年、長年の懸案であった部族領ドウドレブィの封建化を見届けるとボヘミア公ホスチヴィートは老衰にて穏やかにその16年の治世と72年の生涯に幕を閉じた。父から受け継いだ領土を守り、国土の改革に生涯を捧げた為政者であった。狩猟好きの彼が残した鹿の角飾りはプシェミスル家に長く伝えられたという。

 

 この記事はParadox Development StudioのCrusader Kings IIIをプレイした記録を基に筆者の妄想を加えて捏ね繰り回した物語です。攻略などのお役には立ちません。また、プレイに際してはJapanese Language Modを使用させていただいております。ゲームの開発会社様及び日本語化に尽力された翻訳有志の皆様に感謝と敬意を表します。

ボヘミアン・ラプソディ 第1話 獅子公ネクラン

ボヘミアン・ラプソディ

第1話

獅子公ネクラン

 この物語は西暦870年1月1日、ボヘミア公爵領を治めていたプシェミスル家のネクランがスラブの古い教えを捨て、キリスト教カトリックへと改宗したところから始まる。

 当時、ボヘミア公国は西にカール大帝の血を受け継ぐカロリング家の東フランク王国、東に大モラヴィア王国というキリスト教国に挟まれていた。北にはスラブの教えを守るルーサティア大族長領とシレジア大族長領が存在し、地理的に宗教の境界線上に存在していたのだった。

 ネクランは悩んでいた。北からは略奪を目的とした襲撃が度々あり、東西からは異教の地として聖戦の対象とされていたからである。襲撃を撃退し続け、東西に睨みを効かせていた不世出の戦略家ネクランであったが、齢70の高齢となった今、彼が選んだ道は古いスラブの神々の道ではなく、カール大帝以降、欧州を飲み込まんとしていた救いの御子の道であった。


 彼のこの選択は後世に神秘的な伝説として語られるようなものではなく、いわば現実的な打算の結果であった。同じスラブの教えを奉じてるからといって北からの襲撃や土地を狙う争いがなくなる訳では無い。だが、キリスト教に改宗すれば少なくとも東西の王国から異教の地に対する聖戦という大義名分は失われる。さらには結婚による血の交わりで繋がる同盟という選択肢も増えるのである。

 後に獅子公と呼ばれることになる男の最後の大きな決断であった。

 この決断の5年後である西暦875年、ボヘミアの地を守り続けたネクランは75歳で老衰による穏やかな旅立ちを迎えた。果たして彼が向かったのはどちらの神の御下であったのか。

 

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